ふらぐめ開発日記(番外編) 2021/04/30


どうも淡乃晶です。今月はほんとーにただの日記です。

本来なら個人のnoteに書く内容な気もしなくもない……が、今月はこれで。(他に思いつかなかった)免罪符代わりに番外編ってタイトルにつけときます。


本当に愚かな話なのだが、ようやく言外の言葉をコミュニケーションとして認識できるようになってきた。見ようとしないと見えないんだね、あれ。


今まで僕は、表層の言葉や感情ばかり手掛かりにしてしまっていた。リアルタイムで過ぎていく会話のスピードが早過ぎて、反射で対応していかないと間に合わないあまり、自分の受け取る情報を簡略化していたのかもしれない。人間は複雑だと常に謳い、そこが好きでお話を描いてきたはずなのに、自分はサボっていたというわけ。恥ずかしいね。


僕はじっくり考えたいタイプで、準備がしたいしまとめておきたい人。台本を書くという行為は、考えをまとめていく作業に似ている。そういう部分は性に合っている。すぐに吐き出すものではなく、頭の中で見極めた本来の声を探って、それが形になる。スピードとしては相手とコミュニケーションするよりずっと遅く、そして自分の中での対話になるので、会話を自由自在に止めることができるし、言葉が出るまで待っていいし、待っていてあげられる。


しかし現実のコミュニケーションはそうはいかない。会話が終わって反省ばかりする。言葉がでなかった、言いたいことが言えなかった、伝わらなかった。帰り道にどれだけぶつぶつ呟いたことだろう。後悔をなるべく減らすために、現場で相対している人を理解するリソースをなるべく小さくし、モヤったことは家に持って帰って、風呂場で熟考し自分なりの解を導くのが今までの生き方だった。ただそれはリアルタイムの現場において誤解を生みやすく、鈍感で察することができない人間になっていたのかも、という気づきが最近あった。


言葉を大事にするがあまり、言葉の背景をあまり考えなかった。むしろそこが重要なのに。放たれた言葉の意味って本当は大したことなくて、なぜ"それ"を"その表現で言ったか"が大事なんだよね。それを知る手がかりは至るところにあった。目線や態度みたいなフィジカルな側面から相手の趣向、経歴などステータス的な側面。その情報や情念は、見ようとして見なければ、見落としてしまう。活字の上では読解できるのに、対人でそれができなかったのだ。


言外の言葉、コノテーションを捉えようと意識した時、驚く程人の見方が変わった。受け止め方が変われば、人の見方が変わる。もっと深掘りできるんだって気づいた。浅瀬で遊んでいた。ディープな部分に触れたほうが絶対楽しいのに。ちょっとショック。


言葉に限らず、コノテーションも手がかりでしかない。確かなものではない。相手とコミュニケーションのラリーを続ける中で、確かなものは出現する。それは閉まっている心の中に芽生えるものではなく、心を差し出し合った外の世界で観測できるものだと思う。内側にあるものはいつまで経っても内側で独りよがり。作品も発表しなければ独りよがり。表に出さなければ、見出さなければ、差し出さなければ、わからないことっていっぱいある。眠らせている場合じゃない。そのまま死んだら……って考えたら、逆に恥ずかしくて仕方ない。


熟考型人間の僕が、リアルタイムのコミュニケーションの中でコノテーションを読み取りつつ、相手を本質と会話できる能力をどう身につけるか……考えるスピードと反射のレベルを上げていくしかないという結論。そもそも経験値が足りてない笑

一方的に差し出し続けて殴り飛ばされた経験があって、それがトラウマで、どこか遮断していた。思考回路はショートしてたのに、交換しなかった。


立派な感じで書いてるけど、トラウマを克服するって考えると途方もない気持ちになる。「ありのままの君でいいよ」って甘い囁きに揺さぶられてしまいそうになる。話は逸れるが、あれ無責任な言葉だよね。抱きしめてくれないくせに、言葉だけ優等生で嫌になる。その気持ちは温もりで伝えてくれ。


それに加えて「他人は変わらないから自分が変わるしかない」って言葉も最近引っかかってる。なに勝手に他人に絶望してんだよ。変わるという曖昧な物差しで人を測るなよ。もしその「自分が変わるしかない」って言葉、諦めや絶望の気持ちで吐くのなら、きっと真の意味では変われない。状況に慣れていくだけ。


途中から愚痴になってる気もしないでもない……。(夜中にダダダッて書いたから)僕はトライ&エラーを繰り返し学習していくタイプのクリエイターらしい(北島とわ談)ので、いつまでも成長し続ける意志を大事にしていきたいです。


以上、淡乃晶の超日記でした。

(4月30日に公開する気持ちだったけど、忘れてて1日遅れで公開します)


それではまた次回。生存確認、よし。